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映画「永遠の0」を観た。

映画

 

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

 

 

2014年になりました。

引き続きこのブログではアンテナに引っかかって実際に体験したコンテンツを私なりに紹介していくつもりです。

 

映画「永遠の0」を観てきました。

作家の百田尚樹さんの作品は去年一度大きなピークを迎えながらここ数年間大きな注目を集めています。その百田さんの処女作かつおそらく最も知名度が高い作品を映画化した作品。

 

「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために。」そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、一つの謎が浮かんでくる―。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。     ※文庫版「永遠の0」の裏表紙より引用

 

私は原作を読んだうえで映画を観てきました。原作とは少しだけ内容が違います。

少し登場人物のキャラクターが違っていたり、後は小説永遠の0は圧倒的な情報量から成り立っているのに対して、情報がカットされていたり、そんな感じです。時間が限られていますからね。取捨選択の結果です。

 

結果、祖父とその周りの人物の物語としてとても綺麗にまとまっていたと思います。

小説版が戦時中や戦後における問題にまで切り込んでいたのに対してそこら辺までカットされていたり中途半端に残されていたり、原作を読んでいたからこそ残念に感じる部分があったのは事実ですが、

永遠の0の中のヒューマンドラマ的な部分に強い焦点を当てる選択とその選択をキレイにまとめてさすがだと思いました。

 

反面、

いわゆる「神風」はどういうものだったのか、特攻隊は何を思っていたのか、その側にいた人間は何を思っていたのか、それをやらせた人間はどうなのか、

小説版が情報量や登場人物同士の議論を通じて、そういった部分について語られていますが、

映画版はそういった部分に関しては薄味です。

当然映画の中には特攻隊が登場して、特攻隊が出てくる以上、特攻のシーンや特攻に至るまでの心情が視覚的に入ってきます。

我々分かっていない人間にとってそれは「悲惨、辛い、信じられない」

と感じさせることはできてもそれを「なぜ、どう」と理由を持って説明する事はできません。「そう思ったから」が悪い事ではありませんが、それだけで済ますにはバカっぽいですし、戦争っていう歴史はライトではないはずです。

 

説明ばかりでも疲れてしまいますけどねw

 

私は原作の情報が入った上で映画を観ているので情報が閊える事はありませんでしたが、何も知らないで映画から観た人はどうなんだろう?感動の話としてはするする入ってくるだろうけど、戦争というテーマで考えるとどうなんだろう?って思うところがありました。

視覚的に戦争シーン、ショッキングな映像があるので補完されない事はありえませんが、そこで終わる事はどうなんだろうって思う訳です。

 

小説版永遠のゼロは戦争を伝える映画だったと思うけど

映画版永遠のゼロが戦争を伝える映画だったと思うかと聞かれれば首をひねってしまう。

 

※以下はネタバレと批判を大いに含んだ映画に対する感想です。

 

 

 

大石賢一郎に対する何故

 

大石賢一郎はこの作品において非常に重要な役だと思いますが、映画版におけるこのキャラクターに対する扱いは雑そのものだったと思います。

大石賢一郎は主人公の母親の育ての父親です。宮部さんから家族を託された重要なキャラクターのはずです。

映画版では主人公だけがその事実を知らず「何をいまさら」みたいな感じでそれもどうかと思いましたが、そこにまで怒っていると更に長くなってしまうので省きます。

あと主人公は宮部だろ!健太郎は語り手だろ!という意見もあるかと思いますが、話を進めていく人間が健太郎である以上、健太郎=主人公という体で話を進めます。

大石さんは宮部さんが登場する回想シーンにも若い大石として出てくる宮部さんの教え子です。教えている最中、宮部さんはこの大石さんに命を救ってもらい、

教官時代自分が死ぬほど守りたかった教え子たちが特攻隊員として絶命していくのを目の当たりにした事に対して、自分が帰ってこられない事で自分の家族を幸せにすることが出来ない事に対して絶望している最中に再会します。

2人とも特攻隊員に選ばれ、自分を救ってくれたかつての自分の教え子に希望を見い出し、故障するであろう(故障するという事は引き返す事ができる)戦闘機を大石に家族の面倒を見て欲しいという書置きと共に託し、宮部は特攻していきます。

 

戦後生き延びた大石は宮部の奥さんである松乃さんを訪ねて行って、宮部さんと自分との関係、そして約束を果たさせてほしいという告白をします。

松乃さんは当然それを受け入れる事が出来ず、大石さんを拒絶しますが、大石さんは折れずに何度も訪問し、松乃さんも大石さんを受け入れはじめた時に更に自分は松乃さんに情が生まれた事を懺悔します。松乃さんもそれを受け入れ主人公の世代の生活に繋がっていくわけです。

私の伝え方が下手なので伝わりづらいかもしれませんが、とても繊細な人間関係を描いた感動的なシーンです。のはずなんです。

でもこの若い大石さんと松乃さんを演じる井上真央さんの演技が下手糞すぎてぶち壊しなんです。

子供を寝かしつけた後、松乃さんと大石さんの距離が一気に近づくシーンがありました。先に言った懺悔するシーンです。そのシーンの2人の繊細でないといけないはずの感情が一切伝わってきません。台本はそう書いてあるので大石は構わず懺悔しますが、嘘をついているようにしか聞こえず、

松乃も苦しい生活もあって仕方なく受け入れているようにしか見えませんでした。

かなり腹が立ちました。茶番かと。

映画はそんな松乃さんが現代になって亡くなり、彼女のお葬式から始まります。そこで大石さんは泣き崩れるのです。

何故?

大石さんは松乃さんを失った悲しみと宮部さんとの約束を果たしきった事に対して泣いているはず、なのですが、果たして松乃さんに対する悲しみがあったのかは謎です。

いやいや義務感と責任感だけでやってきてそれがなくなった事に対してほっとして泣き崩れたんですよ、大変でしたとしれっと言われても納得してしまいます。

脚本に対しては冒涜に聞こえても不思議ではありませんでしたが、演技を見る限りそう信じてしまうのです。

演じている俳優の事は分かりませんが、彼には荷が重い役でした。キャスティングの失敗です。重要な役なのに。

大石さんは現代のおじいちゃん大石さんもやらかします。

おじいちゃん大石さんを演じたのは昨年亡くなった夏八木勲さんです。

夏八木さんに罪はありません。ただおじいちゃん大石さんの台詞に問題がありました。

「この時代には一人一人にそういった物語があった」

そういった趣旨の台詞をこの大石おじいちゃんが最後の方に言うのです。

この映画のメッセージともいえる部分です。

でもね、

それを役に直接言わせてしまうのってどうなの?

映画を通じて余韻や行間としてそれを伝えるのが表現じゃないの?

私はそう思ってしまう訳です。

映画にしないでそれだけ言えばいいじゃん。

私はそう思ってしまう訳です。

言わせる以上はこの作品で一番重要なはずの大石賢一郎というキャラクターに言わせるのは分かるのですが、

台詞としてそのまま言ってはいけない言葉をそのまま重要人物に、しかも回想の俳優から引き継がれた胡散臭さを持った上で言われてしまうと煽られているようにしか聞こえないわけです。

おいおい宮部さんの覚悟はなんだったんだよってなってしまう訳です。

映画のラストは宮部さんの特攻シーンで終わっていきます。小説では上半身と下半身がちぎれたとか結構ハードな描写なのですが、映画ではそこは省かれて宮部さんが未来に思いを託す気持ちを表現しつつ感動的に終わっていきます。

 

映画での大石の事を思うとそれだけに皮肉でした。

それだけに映画版永遠の0の大石賢一郎に対する私の印象は最悪です。

超重要人物のはずなのに。

 

 

 

もう一人の主人公

 

大石さんが宮部さんの命を救った人間なら、宮部さんに命を救われた人間が景浦さんというキャラクターです。

好戦的な飛行機乗りでちょっとヤバい雰囲気を醸し出す人です。演じていた俳優は素晴らしかったと思います。

この人は宮部さんに喧嘩を売って負けます。負けた悔しさから飛行機に乗っている最中に味方である宮部さんを攻撃するんです。卑怯者です。

宮部さんはそれに対して責める事はせず、なんだかんだ正義感の強い景浦さんは自分の過ちを認め、己を恥じて罪の意識を感じ、宮部さんは自分が守ると決める訳です。

でも宮部さんは死んでしまいました。

彼は宮部さんを守り切る事ができなかったと自分を責め戦後にも引きずる事になるわけです。

その後現代ではヤクザの親分になって取材にきた主人公の軽率な発言にブチ切れて追い返しますが、

ある出来事をキッカケに衝動的に再びヤクザの事務所を訪ねる主人公に「いい目になったじゃねーか」と自分と宮部との過去を話すわけです。

 

主人公を演じた三浦春馬君の演技も結構酷かったです。

「いい目になった」と言われていますが、本当にいい目になっているのか謎な位。

その姉の吹石一恵さんも酷かったです。他にも酷い人が何人かいました。

カメラのカットが変わった途端まるっきり表情や雰囲気が違ってなにこれってどっちらける場面が沢山ありました。

カットごとの演技が繋がっていないという事ですね。

 

彼以外にもそんな演者が何人かいました。演者の失敗でもあると思いますが、編集等の失敗でもあります。これ結構酷かったです。

 

現代版景浦さんの演技にも疑問が残りました。それは最初に追い返した場面も、主人公に自分の過去を語る場面にもどうしてあんなに落ち着いていられたのか。

ヤクザだから?途中お酒やタバコを飲むシーンはありました。おそらく自分を落ち着ける為の行動でしょう。

でもそれだけでは説得力がありません。

そこらへんは演出の選択の問題だと思いますが、なんか腑に落ちませんでした。

回想から帰ってくる必要ないじゃんって。

全てを語り終えた後、主人公を抱きしめる場面があります。繊細なシーンです。そこもえらい淡泊でそんなんでいいんだってなってしまいました。

「俺は若い男が好きでな」

と景浦さんはいいますが、景浦さんは宮部さんに憧れていたのでしょう。

宮部さんの子孫と対面した事で自分にも守り切れた存在がいる事に感動しているシーンです。

バイまたはゲイである事も事実でしょう。

でも感情が表現しきれてなくて、イケメンである三浦春馬君が好みなホモのおっさんにしか見えなくなります。

因みにヤクザの付き人である若い男も過去の話に同席していて、原作ではその話に感動して主人公に感謝する位なのですが、映画ではそれがありません。感動しなかったのでしょう。分かる気がします。

 

 

私が思う百田尚樹作品の真骨頂

 

2点あります。

一つは圧倒的なリサーチ力。小説って言うよりも調べた事をまとめて話くっつけただけじゃん。って言う指摘を見た事があります。意地悪な見方だと思いますが、意地悪な視点を持っている所は私も同類のようなものなのもあって一理あると思います。

話の中の設定を信じさせる上で情報を与える事は手段です。圧倒的な情報量を受ける事は私の好みには合うので好きです。フィクションならフィクションで徹底的に作りこんでほしい。中途半端に描いて力押しをする手法は私好みではありません。

永遠の0に関して事実と異なる。という指摘もあるようです。ここら辺は私のいたらない所なのですが、私の知識が乏しいのでどうこう言えません。

仮に嘘なのが分かれば意見が変わるのかもしれませんが、現時点の私は信じられるだけの情報量です。この点は他の作品「モンスター」における美容整形の世界や、「影法師」における武士階級の世界にも当てはまります。どちらの分野においても恥ずかしながら私は素人です。突き詰めていけば矛盾があるのかもしれませんが、私を信じさせるには十分な情報量です。

 

もう一つが、点と点が線でつながっていく描写。

永遠の0や影法師に関する私の感想なのですが、大きな謎を開けておく→広げる→謎を埋める。この一連の流れを描くのが百田さんはとても上手いです。単に私好みなのもありますが、一種の快感さえあります。パズルの最後のピースが埋まって絵が完成するような感覚、ガンダムのプラモデルの両手両足頭を最後に合体させてガンダムにしていく感覚です。いや、伝わりづらいですねw

永遠の0に関して言えば、宮部さんの死が謎、生き延びられたはずなのに大石さんが出てくるのが謎の広がり、宮部さんを助けた人間が大石さんでした。絶望を感じた中大石さんと再開したことで宮部さんは決心したのですが、謎を埋める情報です。

「影法師」という作品におけるそれは鳥肌級の感動だったのですが、

この作品を初めて読んだ時も詰まっていたものの風通しが一気に通っていった感覚があったって記憶があります。

私は映画の大石賢一郎というキャラクターの扱いや演者にかなり厳しめに批判していますが、大事なピースとして最後に埋まって絵が完成していないように見えたからです。その上表現を台無しにしてしまうようなお説教まで初めてしまったのがどっちらけた理由です。

分かりにくいガンダムの例えに戻ると出来たと思って全ての部位をくっつけたら頭を作り忘れていたような気分です。

ガンダムにとって頭は大事です。たかがメインカメラではないのです。

 

 

結構好き勝手書かせて頂きましたが、

岡田准一さんの演技が素晴らしく、宮部さんというキャラクターも非常に魅力的、話も魅力的です。私は小説版を、もしくは小説版を読んだうえで映画を観る事をお勧めしますが、2014年映画館で観た1本目の映画にこの作品を選んで正解だったなって思います。

戦争という我々平和ボケしている若者にとって非常にタフで難しい、でも知らないままでいるよりも理解する努力を怠るべきでない過去や、

どんどん利己的で自分勝手になりつつある我々にとって頭の下がる映画でした。